《茶✕心意気》現代の売茶翁は、ヨットとクルマに茶室をそなえ、全国3千キロ以上を旅して茶を振る舞う。次は一万人が待つ世界に出帆。【月帆庵/長谷川秀明】

「茶銭は黄金百鎰より半文銭までくれしだい。 ただにて飲むも勝手なり。ただよりほかはまけ申さず」

これは江戸時代に煎茶を庶民に広めた売茶翁(ばいさおう)の言葉だ。売茶翁は61歳の年、京都でお茶をふるまい始めた(1736年)。

ちょうど売茶翁が生きた頃、隠元禅師が煎茶を伝え(1654年)、永谷宗円が伸び煎茶を発明した(1738年)。この頃、抹茶は上流階級の飲み物だった。そして、煎茶が伝来し、佐賀出身だった売茶翁は、煎茶の魅力を市中の人々にまで広めたと言われている。

その時の売り文句が、冒頭の言葉だ。その意味は、「お茶の代金は、お金があるならありったけから、ほんの気持ちまでいくらでもOK。無料で飲むのもあなた次第。ただし無料以下にはまけません。」だ。

売茶翁が煎茶を広めたから、日本には他国に類をみない庶民のお茶文化が息づいているのかもしれない。そしてお茶が当たり前のもてなしとして広く共有され、「お茶は無料で提供されるもの」となったのかもしれない。

今回、紹介する長谷川秀明さんは、64歳で故郷の東北を離れ、茶室付きのヨットと、これまた茶室付きのキャンピングカーで生活し、全国各地を回りながら、無料でお茶をふるまう活動を続けている。すでに3万キロ以上を旅し、3000人以上の方々にお茶をふるまってきた。

そして、今度は世界各国で1万人にお茶をふるまう計画だ。

お茶は、「おもてなしの気持ちをあらわすもの」だ。本来、値段がつくようなものではない。しかし経済優先の現代においては、そんなことは、特に商売では言ってられない。

長谷川さんの活動は、相手に見返りを求めない、本来の「おもてなし」の精神を「一杯のお茶」に込めて、伝え続けている。

船上や車中生活を続けながら、全国、そして今後世界でお茶をふるまう、現代の売茶翁、長谷川秀明さんにお話をうかがった。

長谷川宗水(秀明)(はせがわ そうすい(ひであき))
茶道裏千家専任講師。お家元より茶名拝領し茶名は「宗水」。秋田県大館市出身 1954年生まれ
10代後半から国内・海外放浪の旅をし、その間に3度アマゾン・アンデス周辺を探検する。
25歳に帰国後、裏千家へ入門。同時期から木工会社勤務と陶芸を習い始める。
30代後半には「遊野」カヌーと家具を製作し始め、50代後半に秋田県・十和田湖に工房を移転させる。50代で裏千家茶名「宗水」を拝領し、60代からヨットで日本周遊お茶の旅を開始。
著書『チープなヨットライフ 2to』

活動舞台は海と陸。全国をヨットで3万キロ、陸路をキャンピングカーで2万キロ以上を旅しながら、各地で茶をふるまう。目標は1万人。

Q:ヨットと車で全国を回ってお茶をふるまっていらっしゃるのですか?

長谷川:2018年末にヨットを購入して、ヨットに茶室を作りました。ヨットで暮らしながら、全国3万キロを航海し、停泊先でお茶を無料で振る舞っていました。

すでに3,000人くらいにお茶を振る舞いました。

改造したという茶室付きキャンピングカー
そして2022年6月には、日産キャラバンを購入し、茶室付きキャンピングカーに改造し、引き続き、今度は陸路で全国各地を回って、お茶を広めています。

Q:2018年末にヨットを購入して全国航海へ出発した時、長谷川さんはおいくつだったんですか?

長谷川:私は64歳でしたね。

それまでは裏千家のお茶の先生のところに通って茶道を習い茶名を拝領いたしました。

月帆庵十和田湖ホテルにて海外の方々にお茶を振る舞う長谷川さん
十和田湖に移住してから(約10年前)奥入瀬渓流や湖畔、または山々で野点をしているときに通りがかりの観光客やホテルのロビーで宿泊の方々にお茶を振舞っていました。

Q:どうして、このような壮大な旅を始めようと思われたのですか?

長谷川:これまで、わたしはいろんな人生経験を積んできました。その期間を経て、いまの自分は「この素晴らしい日本のお茶文化を世界の人たちに広げたいし、その良さをわかってもらいたい」という想いがより一層強くなったんです。

そして自分はこれまでたくさんの方々のお世話になりました。かつて自分がお世話になった方々に直接恩返しはできないけども、これから会う方々に美味しいお茶や和菓子を食べてもらうことによって、恩返しができるんじゃないかなって想って、旅に出ることに決めました。

最終目的よりプロセスが大事。いまの長谷川さんの原点ともなる放浪の旅とは

Q:長谷川さんがこの旅を始めるきっかけは?
長谷川:この旅を始めるきっかけは……ずっと昔にさかのぼることになってしまいますが、いいですか?

自分が19歳、高校卒業する頃に「大学へ行って、就職して、そのまま自分の人生は終わるのかな、もっと何か違う可能性があるはずだ」と感じたんです。

海外を旅したい気持ちもありましたが、未成年だったことと周りの助言もあり、まずは日本での旅をスタートしました。

山が好きだったので、真冬の時期に秋田の大館を出発して、屋久島を目指したんです。途中いろんなところでアルバイトをしながら汽車に乗ったり、船に乗ったりして2月に着きました。

ただ結局は、雪に降られてしまって目的地としていた屋久島の宮之浦岳の登山はできなかったんですけどね。

後日、宮之浦岳登頂を達成したという
2年半日本を旅したあと、22歳の時にペルーを目指して海外に出ました。インカ文明にすごく興味があったので、マチュピチュ遺跡などを見たかったんです。

しかし、ペルーに行くための飛行機代なども持っていなかったので、カナダやアメリカでバイトをしながらお金を貯めました。

その後ロサンゼルスまで南下して、アメリカ大陸を横断してマイアミまで行き、最後は飛行機でベネズエラに飛びました。ベネズエラからまっすぐ南下するとアマゾンの中継地のマナウスに出るんですが、当時は1978年、そういうルートを通る人はほとんどいなかったです。

もっと楽なルートも選べたのですが、自分であえてアマゾンを通るルートを選びました。

アマゾン川下りアマゾン川下り出発の時の一枚
どうしても自分の目標達成をするために、皆さん近道をしますよね。

でも私の場合は、「近い道じゃなくてちょっと寄り道していこうね」という発想なんです。そのプロセスこそに自分の旅の目的があったんじゃないかなと思いますね。

Q:旅から戻ってきてからはどうお過ごしだったんですか?

長谷川:その後64歳になるまでは俗世間で生きてきました。木工会社で働いたり、結婚してこどももできたり。

こどもたちも成人して自分たちの生活の基盤ができたので、これからは私が自分でやりたいことをやろうと思い、64歳からお茶を広める旅に出ることにしました。旅に出る前に妻とも円満に離婚しました。

お茶を広めに日本や世界を回りたいという思いは64歳になる前からありましたので、本来ならもっと早いタイミングで行動していても良かったのかもしれません。
ですが、今でも私は元気に動き回れているので、このタイミングでも問題なかったなとも思います。

若いころ旅にでて、一度日本に戻り、再び64歳で旅に出るまで半世紀近くの時間が空きましたが、私にとってはその時間も自分の生き方を一つずつまとめる大切な期間になりました。

人生の最期までお茶を淹れたい。旅人として受けた恩をおいしいお茶で返していく

Q:長谷川さんがお茶を始めようと思ったきっかけは?

長谷川:ペルーに向かう途中、ブラジルのクルゼイロ・ド・スル(南十字星の意)という街で、道が寸断されて45日ぐらいの滞在を余儀なくされたんです。

そして46日目にやっとペルーに入れたと思ったら、今度は急性肝炎になって首都のリマで1ヶ月の入院生活。

病気療養後にクスコへ行き、目的地の一つであったマチュピチュやインカ最後の都と言われるビルカバンバンへも行きました。

興味のあったインカ文明の都市などを訪れたあとはボリビアに入国。首都ラパスの北方から流れているアマゾン河の支流リオベニからアマゾン川下りをして再度ブラジルへ入国を果たしました。

アンデス山中ビルカバンアンデス山中ビルカバンへの途中の写真
この時の南米旅の出来事のおかげで、自分のこれまでの生き方やこれからの人生などについていろいろ考えることができ「山の中でスローライフを送ろう」という、いまの暮らしの原型みたいなものが見えたんですよね。

そして、自分が無事に日本に帰ってこられたのはなぜかと考えると、アマゾンの自然に対しても人に対しても、『謙虚さ』があったからではないかと。そう気づいた時に、これから日本で生活するにもやはり謙虚さを持たないといけないんじゃないかなと感じました。

ちょうどそのタイミングで、たまたま『茶道教室』の案内が目に付いたんです。もしかしたらお茶じゃなくて、生花をやっていたのかもしれないので、本当に偶然の出会いですね。

導かれるままに25歳で裏千家に入門したものの、ヨットで旅に出る64歳までは、お茶の先生のところに通って茶道を習うだけでした。

Q:どうしてヨットの旅に出ようと思ったのでしょうか?

ヨットマリーナでの一服
長谷川:結局いまの私を形作ってきたのは茶道であったり、自然であったり、お茶であったり、そういった日本文化とか日本の精神だと思ったんです。その良さを、海外の人たちにも知ってもらいたいなというのが理由ですね。

もう一つは、若い頃、私も放浪していろんな方に助けられました。今もある意味、浮浪者のような感じの生活で旅をしてて、いろんな人に助けてもらってるんです。

茶室付きキャンピングカー

直接そういう方々に恩返しはできないけども、これから会う方々に美味しいお茶や和菓子を食べてもらうことによって、恩返しができるんじゃないかなっていう想いがありますね。

この40年間は俗世にまみれながら、いろんな人生経験も積んできました。その期間を経て、いまの自分は「この素晴らしい日本のお茶文化を世界の人たちに広げたいし、その良さをわかってもらいたい」という想いがより一層強くなったんです。

あまり自分が死ぬことを考えたことはないですが、いつか自分でつくった小屋でお茶を飲みながら最期のときを迎えるんじゃないかと思いますね。
若いときの旅では、私は何も持っていなかった。

でもいまは『お茶』っていうものを持っている。だから、お茶を介して人とつながっていける。

そうやって最期までお茶とともに人生の旅を続けていくんじゃないでしょうか。

Q:この旅の一番の魅力は何ですか?

長谷川:私にとっての一番の魅力は、お茶を飲んだ後の皆さんの笑顔が見られることです。皆さん、すごくいい笑顔になるんですよ。

多分、私と会ったのは偶然。もちろん会った人全員がハッピーなわけではなく、会う前に苦労も悲しいこともあったかもしれないけど、私が淹れた一杯の美味しいお茶を飲むことで、すごく皆さん笑顔になるんです。

長谷川さんの点て他お茶は飲んだ人を笑顔させる
その笑顔が私の原動力ですね。より多くの方にそういう笑顔になってもらいたい。

相手の方には特に見返りを求めていないのですが「あそこで飲んだお茶美味しかったな」「なんか小汚い格好した人にお茶すすめられたけど、飲んだ後はほっとした気持ちになったな」と、いつの日か何かひとつでも思い返してくれれば嬉しいですね。

Q:長谷川さんのこれからの計画を教えてください。

長谷川:いろんなことを実現したいですね。端的に言えば、お茶を振る舞うことで世界中の人を笑顔にしたいんです。目標は1万人ですね。

表参道にて茶道教室の生徒さんにキャンピングカー茶室月帆庵(るなほあん)のお披露目
なぜ1万人かと言いますと、1億円のクラウドファンディングを行なっていたんですが、その時に100社に100万円ずつ出してもらうよりも、1万人が1万円を出してくれたらいいなと思っていたんです。

そこから世界周遊するときには1万人の方々にお茶を飲んでもらおうという目標ができました。

Q:長谷川さんの将来のビジョンを教えてください。

長谷川:いまはとりあえず日本を出ようと思って、動いています。元々はクラウドファンディングで1億円集めて、大型のヨットを購入し、そのヨットにも茶室を作って、世界各国の港で茶道体験・茶点パフォーマンス・和文化の紹介を行う予定だったんです。

しかし、その1億円のクラウドファンディングが失敗に終わってしまったんですよ。

50万円も集まらず、失敗に終わりました。

いまは先に海外に飛んでからヨットを探そうかなと思っています。僕が求めているカタマランヨット(双胴船)は海外にはたくさんあるんでね。

ヨットヨットのデッキでお茶を点てる長谷川さん
Q:長谷川さんの中に「諦め」という言葉はないですね。

そうですね、私にとってお茶を世界の方々に振る舞うことは人生の目標なので、クラウドファンディングは一度失敗しましたが、諦めていません。

今はバイトをしながら車中生活をしつつ、世界周遊へ向けて準備をしています。

ただ私自身「こだわり」というものをもたない人間なので、世界をまわる方法にもこだわりはなくて。ヨットでもキャンピングカーでもいいかなと。いろんなところを回りながら、世界各国の人にお茶を振る舞うのが目的なので。

時期としては2025年の春頃に世界周遊をスタートしたいなと考えています。

Q:将来のビジョンに対して現在地はどのあたりでしょうか?

長谷川:すでに3,000人くらいにお茶を振る舞っているのですが、新規で1万人を想定しているので、そういう意味ではゼロの段階です。

初めて私のお茶を飲んでくれる人が漁師さんなのか、道端を歩いている買い物帰りの主婦になるのかわかりません。世界のどこかで1万人のうちの最初のひとりが待っていると思うと、早く会いたいですね。

そこから1万人達成までには、何年かかるかわかりませんが、3年半から4年で3,000人くらいに振る舞ったことを考えると、12年もあれば、1万人に到達できるんじゃないかなって感じています。

大事なのはお茶を振る舞い続けること。良さが伝われば需要も自然と伸びていく

Q:参考にされている事例やベンチマーク、ライバル的な存在はありますか?

長谷川:ないですね。いまやっていることが私が最初に歩んでいる道なのかもしれないし、実は2番手、3番手なのかもしれないですが、目指している人はいないですね。何よりそういう孤高の方々は表に出てこないでしょうから。

さっきも言った通り、今はヨットにはこだわっていないので、車で回ってもいいし、もしかしたら気球を使うかもしれない。空飛ぶ茶室とかね(笑)

Q:長谷川さんにとって、お茶とはどのような存在ですか?

長谷川:まず、おいしい。美味しいって言ったら、それで終わってしまうんだけども。抹茶も含めて、お茶を飲むとなんだかほっとしますよね。

Q:お茶には、なにか難しさはありますか?

長谷川:私の場合は毎日の生活では抹茶しか飲んでいないのですが、抹茶はすぐ酸化するので、開けたらなるべく早く飲んでしまわないと、というのはありますね。

キャンピングカー生活をしているので、高温多湿などには気をつけています。冷蔵庫に保管するのが一番いいですね。

Q:お茶業界の未来はどんなふうになっていくと思いますか?またどうなって欲しいですか?

長谷川:宇治などのお茶の産地では、抹茶をお菓子付きで600円〜800円で出すじゃないですか。でも私は無料で差し上げなさいよって思うんです。

特に外国の方などが、いまはすごく日本食や日本茶に関心を持たれてますよね。そういった方に率先して美味しいお菓子とお茶を無料で飲んでもらって、ドネーション形式でお金をもらったらいいんじゃないでしょうか。「気に入ったら500円でもいいですし、気に入らなかったら0円でもいいですよ」といった風にね。

お抹茶と和菓子

そういった取り組みをすることで、日本茶や抹茶の良さがどんどん知れ渡り、需要が増えていくんじゃないかなと。お茶の本場の京都市や宇治などは特に、積極的に無料でお茶を提供するお店が増えていってほしいですね。

私は「振る舞う」と言う言葉がとても好きなんです。見返りを求めていない精神を感じますよね。

素晴らしい日本茶文化を世界の人たちに広げると同時に、私は色々な方々に助けられて今まで生きてきたので、お礼の気持ちもこめて、お茶を振る舞って恩返しをしていきたいのです。

All photos by 月帆庵/長谷川宗水